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5.喜劇は終わりぬ その2

写真集 ロシア1917 付録(1991年4月)
本訳書を、わが国の無名革命戦士に捧ぐ 藤岡啓介


 翌一九一八年、大正七年の夏、"普通の"女たちの井戸端会議から発した米騒動が内地を震憾させた。赤露侵略のシベリア出兵も始まった。貧乏人の彼が職を得た会社が貧乏人に襲われ、本社が焼き討ちにあった。十六才の彼は、思いたって同僚を集めた。「君達は、単に食うために鈴木に入った訳ではあるまい。食うだけなら、犬でも猫でも食っている。われわれは志を持たねばならない………今後の商人は、たとえ一つの商品を動かすにしても、ただ儲けさえあればよいと考えてはならぬ。それが社会のひとびとに役立ち、社会から感謝されることが肝要である」。

 鈴木商店大連支店に、「旭会」なる勉強会が誕生した。機関紙を「あさひ」として、謄写版で発行した。創刊号に「米騒動と鈴木商店」を掲げた。旭会は解散、機関紙は一号で廃刊となった。発行人の彼は長春の出張所に飛ばされた。
馬糞と泥土の混ざった砂塵の巻き上げる、零下二十度の寒さの中で、彼は考えた。満州の国土は中国のものである、そこに鉄道を敷き、軍隊を駐屯させて勝手なまねをしているのが、日本帝国主義である、しかも、そのことによって莫大な利益をあげているのが一部日本の財閥ではないか、俺は、その財閥の一つである鈴木商店の一兵卒ではないか。何とも、あさましい思いがした。尊大にふるまう、低劣で下等な一部の在満日本人にも、嫌気がさした。

 一方、新聞では、社会主義同盟が結成されたこと、大争議が全国各地で発生していること、八幡の溶鉱炉の火が消えたことなどを、センセーショナルに報じていた。ロシアの労農政権樹立も報ぜられた。北満の荒野で独り、血が騒いだ。出たばかりの高田保馬の『社会学原理』や丘浅次郎の『進化論講話』、山川均の『社会主義研究』に給金を投じた。大正十年四月、彼は東京の堺利彦のもとに手紙を書いた。「………この際上京して先生の膝下ではたらきたいと存じます………」。堺から返事がきた。「貴信正に拝見。その悲壮なる決意に対し、深く敬意を表します。大兄のような有能な士が、一人でも多く、わが戦列に参加されることは、何よりも心強い次第です。ぜひ、上京されたし。折角の御健闘祈る」。

 長春の責任者は驚いた。驚いて、引き止めた。社会主義は学問だけにしておけ、辛抱すれば、出世も出来よう、口添えもしてやろう、と。彼は「鈴木商店退社の辞」を書き、印刷し、総帥金子直吉他全役員、本支店社員宛に送った。「顧みれば、私が鈴木商店へ入社したのは大正六年六月である。在勤わずか四ヶ年で退社するに当たり、悟越ながら鈴木商店の全員に向かって、私は次のことを申し上げたい。鈴木商店の繁栄は、もとより諸氏の努力の結果であるが、それは社会あってのことで、社会なくしてはありえない。日本資本主義社会の発展の賜物であり、幸運の所産である。しかるに、去る大正七年の米騒動では、財閥中ひとり鈴木商店のみが焼き討ちにあった。このことは、鈴木商店で働くもの全員が当然に考えなければならぬ重大な問題であった………かくて資本主義は遅かれ早かれ崩壊し、社会は社会主義に向かって進む。この歴史の動向を知らずして、いつまでも鈴木商店が繁栄するものとのみ考え、安閑として暮らしている諸氏は不幸である。私はいまだ年少であるが、この社会の動向を察知して、今回、鈴木商店を去り、幾多の困苦を覚悟で社会主義運動に身を投ずるものである。笑うものは笑え!最後に笑うものが勝利者である!“暴言多謝」。

 十九歳の誕生日に、彼は東京に向かった。懐には、土佐の娘と、伯母と、堺の手紙をしのばせていた。半年の後、暁民共産党事件で市ヶ谷の監獄につながれた。未成年監であった。鈴木商店はそれから六年の後、昭和二年(一九二七年)まで生き延びたが倒産、昭和金融恐慌の引き金となった。これが、彼藤岡淳吉のロシア革命体験であった。(つづく)

            淳吉18歳

「カントもヘーゲルも上層建築物のたたき大工だといった頃 19歳」との添え書きがある。
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2014.04.05 Sat l 5.2 喜劇は終わりぬ l コメント (0) トラックバック (0) l top
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